栄えているまちを見出す
泰有社のあゆみ
今からさかのぼること約100年。保土ヶ谷区の出身だった初代・水谷欽一は、当時、露店や闇市で活気のあった現在「弘明寺エリア」に注目しました。かつて船の輸送業で得たという水谷家の財を元手に、昭和初期から弘明寺エリアの土地購入に乗り出しました。街に対する嗅覚が鋭かった水谷は、昭和30年代には弘明寺に加え、関内エリアでも土地購入をはじめます。活気のあるエリアを見出して、そこに根を下ろすように街との関係が動き出しました。
当初は個人で土地を購入したりアパートを建てたりしていましたが、昭和41年に「株式会社泰有社」として法人化に至ります。時は日本の高度経済成長期。翌年、関内の一等地に“泰有社の顔”となる「泰生ビル」を建設しました。建設当時は周りに大きなビルもなく、埋め立ても進んでいなかったため、海の眺望がすばらしかった泰生ビル。関内エリアでエレベーターが導入された最初のビルと言われています。
土地を買ったりビルを建てたりするだけではなく、街をつくる意識とともに事業を拡大した水谷。街という単位で物事を考える、「泰有社」の礎がここにあります。
ヴィンテージビルの
再生を
初代の逝去後、29歳にして平成6年に会社を継ぐことになったのが2代目の水谷浩士。祖父から孫へと、経営のバトンが渡されました。人との縁が何より大切と語る水谷は、社の存続をかけて2年ほど相続の整理に邁進します。底地を売却するなど不良資産を整理しながら、経営を軌道に乗せていきました。
この時期は、古いビルを割安で購入することで、入居者にも安く使ってもらう経営方針で事業を拡大していきました。昔から古いものが好きだった水谷は、ヨーロッパの建築文化と比べ、古いものを壊して新しいものをつくる日本のあり方に疑問を感じていました。目指したのは、古いものを活かして使うビジネスモデル。
平成10年前後には、土地やビルの所有が横浜に偏ることのリスクを避けるため、東京の不動産の購入にも乗り出しました。リーマンショックの前には不動産のミニバブルがあり、関内のビルの所有も広げていきます。だがリーマンショック後、関内の物件の空室率が上がる状況を経験。この頃から生まれてきたのが「ビルを温める」という考え方だった。そして新たな展開が、横浜・関内を舞台にスタートすることになります。
入居者とともにビルを
つくる“まちの大家”
コミュニティが生まれるビル
2000年初頭には、古い物件をリノベーションして利活用する手法に注目が集まり、東京 R 不動産などの活動が広く知られるようになっていました。そんな時代背景のなか、クリエイター自身によるリノベーション可能な物件の提供に乗り出しました。クリエイターやアーティストの誘致をサポートする横浜市の施策とも連動し、泰生ビルの空室を満室にしてビルを入居者とともに温めていくことになります。
弘明寺では、商店街の入り口にある商業施設が閉鎖。商店街の方からビル購入の相談があり、それを受けて現在のGM2ビルを購入します。弘明寺とともに歩む“まちの大家”だからこその選択でした。
その後、平成27年に泰生ビルの向かいにクリエイターの創造拠点として「泰生ポーチ」を、そして平成30年には同エリアに「トキワビル/シンコービル」をオープンしました。現在関内エリアの4つのビルを合わせると、50組に及ぶクリエイターの賃貸契約があります。これからは集まったクリエイターとともに、関内のコミュニティで新たなプロジェクトやイベントに取り組み、街へとアウトプットしていくことを目指します。
これからも私たちは、関内や弘明寺の街の一員として、“人が主役”のビルとコミュニティをつくっていきます。