春になると艶やかに八重桜が咲き誇り、花吹雪が舞う。多くのビルが建ち並ぶ関内桜通りは年に1度、空気まで色めくような季節を迎える。その桜は、夏には緑濃い樹影を提供し、秋には色づいた落葉で時の流れを知らせる、横浜の都心部の貴重な自然となっている。
JR関内駅(横浜市中区港町1丁目)北口・港町2丁目の交差点から神奈川県警本部ビルが建つ海岸通2丁目まで、海に向かって延びる約600メートルの通り両側には、約90本の桜が植えられている。
泰生ビルは、この桜並木に面した土地に1967年に竣工し、以来、仕事や暮らし、数え切れない入居者に活動の場を提供してきた。特に、2010年からクリエイターの積極的な受け入れを始めてから、個々の事務所・住居の活動場所のみならず、ひとつの生態系のようなビルに変貌しつつある。このビルの歴史、関わる人の声から「泰生ビル」の魅力や変化の原点、可能性を探った。
「万事順調」を願い、建てられた所有ビル第1号
1967年(昭和42年)6月8日に竣工した泰生ビルは当初、玄関を入って左側部分を泰有社が、右側部分を「常磐不動産」が所有していた。左右でオーナーが違う物件だったのだ。
終戦後から横浜市南区・京急弘明寺駅周辺で、所有する不動産の管理をしていた創業者・水谷欽一(故人)さんは、前年の1966年(昭和41年)に泰有社を会社登記して「創業」した。竣工は、1908年8月生まれの欽一さんが59歳の時のこと。泰生ビルは所有ビル第1号だった。
「泰という字は、当時『易』に凝っていた祖父(欽一)が気に入っていた字のようです」と話すのは現・社長の水谷浩士さん。さまざまな「易経」の解説によると「泰」が使われているのは「地天泰(ちてんたい)」という「卦」(け)。これは「上にある地は下がり、下にある天が昇って上下が和合する」という状態で、「平穏・和合が実現し、万事順調」というおめでたい意味があるという。
相生町という地で「平和・和合」を願う「泰」の字を贈られたビルは、家族経営の洋食店やイタリアンレストラン、定食屋など飲食店が1階に入り、2階には事務所、そして3階以上は賃貸住宅という構成だった。
ビルが竣工した1967年は、1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦後から四半世紀余り、いよいよ日本が高度成長期にさしかかるという時期だった。横浜大空襲(1945年5月29日)の被害が甚大で、終戦後の接収で復興が遅れていた横浜市中心部は、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約締結後に、ようやく所有者のもとに土地が戻ってきた。そして、その年に施行された「耐火建築促進法」が関内地区の本格的なまちづくりを牽引したと言われている。
この法律は、広範囲にわたって3〜4階建ての耐火建築物建設を促し、「火災の被害を受けにくいまちづくり」(防火帯)を整備する目的で制定された。耐火建築物を建設する際に補助金が交付されるため、横浜でも積極的に建設が進められ、約400棟が建てられたといわれている。
泰生ビルは、横浜の復興期からやや遅れたものの、1952年から1960年代初めにかけて建設された「防火帯建築」の特徴を色濃く残す。
全体が「ロ(コ)の字型」で中庭的な空間があり、住居部分がこの中庭を囲むように配置され、開放廊下でつながっている。もちろん、事務所・各住居の窓は開くことが可能で、屋上には物干しスペースもある。桜通り側からは見えないが、内側にも空間があるので風通しは良い。
竣工直後の泰生ビルには管理人室もあり、欽一さんはよくその部屋にいて様々な人たちの相談にのりつつ、入居を勧めていた。
関内の地盤沈下、そして「芸術不動産」との出会い
関内桜通り周辺は、横浜市役所・県庁にほど近く、神奈川新聞社・国際親善病院など人の出入りが多い施設が多かった。また、高度経済成長時代に料亭やクラブやバーなどの飲食店の集積が進んだ関内は、深夜まで賑わいが絶えることがなく、人と情報が行き交う界隈だった。
しかし、その後のバブル時代(1986年〜92年)、そして20年余り続くバブル崩壊・低成長時代に少しずつ関内の空洞化は進んでいく。国際親善病院は1990年に泉区に、神奈川新聞も1996年に西区花咲町に移転。土地の高騰・売却・塩漬けや、みなとみらい21地区のオフィス増加によって、このエリアから働く人たちがじわじわと減っていき、関内地区の事業所数・従業員数は1996年をピークに2000年初頭にかけて15%も減った。(1981年と比較)。
この間、泰有社も大きな変化があった。創業者の欽一さんが1994年に亡くなり、外資系自動車会社で営業をしていた欽一さんの孫・浩士さんが急遽、代表を継ぐことになったのだ。ただ、経営者交代にもかかわらず、バブル時代から2008年9月のリーマンショック前までは、泰生ビルの入居率は85%から90%を維持していたという。
しかし、リーマンショック後の2009年ごろから、2階の事務所用スペースがほぼ空き、3階以上の住居も空き部屋が出て、借り手が見つからない苦境がなかなか解消されなくなった。そんな時に、管理を担当していた伊藤康文さんはインターネットで公益財団法人横浜市芸術文化振興財団が当時実施していた「芸術不動産」事業を発見した。「芸術と不動産。よくわからなかったが『助成をしてくれるのかもしれない』と、早速相談に行った」。それが2010年のことだった。
芸術不動産事業は「アーティストやクリエイターの滞在・制作・発表場所の創出を第一の目的とし、関内、関外エリアの空き物件の再生を行い、創造力によって地域に付加価値をもたらすことで都市の活性化を生み出す」ことを目的とした助成制度。核となるテナントとオーナーが共に協力して事業を動かしていく必要があった。
「クリエイターと言われてもどこに行けば会えるのか、まったく分からなかった」という伊藤さんに、横浜市芸術文化振興財団の杉崎栄介さんが「まずは知り合いが多いこの人に会ってみたら」と紹介したのがNPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボ(以下「ラボ」)代表理事の杉浦裕樹さんだ。
彼は、2004年から運営するウェブメディア「ヨコハマ経済新聞」編集長を務めており、アーチスト・クリエイターをはじめ、多種多様な知り合いが多い。
ラボは当時、中区若葉町にあった1966年竣工の5階建ビルをリノベーションしたアートスペース「似て非works」5階に事務所を置いていた。やや手狭になって、関内地区で拠点を探していたタイミングということもあり、2010年に泰生ビル2Fの1室に入居することになった。
「NPOっていっても何をしているかわからないし、どういう人たちなんだろう?」と怪訝な思いを抱きながら受け入れた。ほどなくして、伊藤さんの所にラボを訪ねた人から「このビルの部屋空いていませんか?」と次々と問い合わせが来るようになった。
しかも内見をする人たちは、リフォーム済みの部屋よりも、まだ残置物があり「これではとても借りないだろう」という荒れ果てた部屋を見て喜ぶような「変な人たちばかりだった」と伊藤さんは当時を振り返る。そのうちに「入居者が自己負担でリノベーションするのだから、退去時に原状復帰する必要はない」と伝えるようになった。
「原状復帰といっても、荒れ果てた状態に戻してもらうわけにはいかないし。自然の流れだった」
古いビルに新たな価値を創造する
この方針を聞きつけてさらに建築家らの関心が高まり、会う人が増え、伊藤さんの名刺は瞬く間に減っていく。ほとんどが、これまで全く付き合いのなかった「クリエイター」「アーティスト」「起業家」と呼ばれる人たちとの出会いだった。「よくよく視野を広げてみたら、そのころからR不動産の馬場正尊さんやブルースタジオの大島芳彦さんはすでにリノベーションという手法で、多様な人たちとコラボレーションし、古い建物に新たな価値を創造するプロジェクトを始めていた」(伊藤さん)。ビルの価値に気づいた伊藤さんは、その再生に本腰を入れ始めた。
泰有社は、2011年に、芸術文化振興財団から芸術不動産事業助成を申請し、この年から「関内外OPEN!」にも参加。2012年度に常磐不動産が所有していた「右側ビル」(相生町3-60)を取得し、ビル全体の配管改良工事、5階に入居したアートユニット「似て非 works」による2F部分の改装などを一気に行い、「さくらWORKS<関内>右側」スペースが完成。さまざまな創造的活動が展開する拠点として動き始めた–。
そして、2018年、クリエイターたちがビルに入居し始めてから8年目に入った。泰生ビルでは今、玄関や階段の踊り場・共有廊下ですれ違う人と「こんにちは」と挨拶の言葉が行き交う。顔見知りも多く「あれどうなった?」などと、短い「井戸端会議」をする入居者の姿は珍しくない。ビル玄関には日中、シェアオフィスや美容院・ジャム工房・通信制高校の看板が並ぶ。
入居者はこのビルで日々、どのようなことを感じながら仕事をしているのだろうか。今後、数回にわけて、泰生ビルの入居者たちを紹介していく予定だ。
取材・文・写真:宮島真希子
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