MAGAZINE

入居者ファイル#58
井上秀兵さん・倉本あかりさん(Studio neutral)

横浜で最も古いお寺に続く「弘明寺かんのん通り商店街」。その一角に、淡い光が差し込むフォトスタジオ「Studio neutral」がある。写真家の井上秀兵さん・倉本あかりさんの二人が営むこのアトリエでは、写真を撮るという行為が仕事と生活のあわいをゆるやかに往来し、日々の営みに溶け込んでいるようだった。

写真への道

「Studio neutral」は、二人の写真家が活動するアトリエであり、撮影を含めたさまざまな創作活動や人との交流が生まれる場でもある。
 
二人の写真への道のりは対照的だ。井上さんはウェディング業界の撮影を経て、IT企業などの企業広報撮影を多く担当してきた。マネージャーやチームリーダーとして現場を統括することもあり、クライアントワークとして、お客さまの思いをきちんと形にする写真を志向する。趣味は山登り。近年は、長野県に位置するキャンプ場「ist – aokinodaira field」をはじめ、カメラやアウトドア業界を掛け合わせた取り組みに力を入れている。
 
写真を始めたきっかけは、成人祝いに母から貰った一眼レフ。サークル仲間のバンド活動や旅行先の風景を撮影することに打ち込み、2011年にフリーランスのフォトグラファーになった。

井上さん

一方の倉本さんは建築写真を多く手掛けている。スタイルとしては説明的な撮影よりも、その空間から受け取る“ニュアンス”や“イメージ”を写真に落とし込むことが自身の強みだそうだ。京都では、建築写真撮影だけではなく、少女の成長を追ったポートレートを撮影する個人プロジェクトを何年にもわたって続けている。
 
倉本さんが写真を本格的に始めたのは社会人になってからだ。電車で目に留まったウェディング会社の華やかな広告写真に惹かれて入社。子どもの頃から写真を見るのが好きだったが、仕事で必要とされる写真の基礎技術は、ウェディング会社のコーチングにより養ってきた。
 
二人の出会いは倉本さんがいたウェディング会社でのことだった。その会社では写真を評価しあう活動があったそうで、フリーランスとして関わっていた井上さんは「作品を通してなんとなく互いを認識していた」と話す。交流が深まったのは後に別の会社でチームを組むようになってから。倉本さんは「当時はタイプや得意分野もかなり違ったけれど、一緒に活動をしてお互いの写真を見ているうちに、視点や感覚が少しずつ似てきたように思います」と話す。

倉本さん

グラデーショナルなアトリエ

二人がここにやってきたのは、弘明寺に建築設計事務所を構える「AKINAI GARDEN STUDIO」の神永佑子さん・梅村陽一郎さんのウェディングフォトを井上さんが撮影したのがきっかけだった。その撮影以降も、彼らが手掛けた建築物の竣工写真を撮影するような関係が生まれ、ほどなくして井上さんは梅村さんから弘明寺の空き物件を紹介してもらったそうだ。
 
空き物件を見学し、夕方に差し込む光に惹かれた井上さんは「アトリエを弘明寺につくる」と入居を即決した。当時、関西を中心に活動していた倉本さんもアトリエづくりの過程に興味を持ち関わるようになった。そうして「Studio neutral」は、井上さんと倉本さんを共同オーナーとして2022年3月にオープンした。
 
設計を担当したAKINAI GARDEN STUDIOの神永さんは、井上さんがInstagramに投稿した写真をさかのぼって見て、井上さんたちの好きな時間帯、好きなものに寄り添ってくれたと言う。そうして見つけたキーワードが「グラデーション」だった。

スタジオを広めに捉えた写真。床も暖かい印象で「なんだか座り込みたくなる」と言う人も多いそうだ

スタジオ内を左右によく見回すと、壁は青みのあるグレーからオフホワイトまでグラデーションするように塗装されている。スタジオは主に作業スペース、写真集が並ぶライブラリースペース、暗室作業スペースの3つに分かれているが、曲線的なアール壁がスペースごとの境界を感じさせないようになっている。

編集作業を行う作業スペース。フィルム写真をデータ化するスキャナーやプリンターも

倉本さんも「この空間がとても気に入っています。日の落ちる時間帯や自然光の入り方によって全体の印象がどんどん変わっていくのが魅力」だと話す。
 
“neutral(ニュートラル)”には中立や中性、中間といった意味があるように、心の平穏や落ち着く瞬間を写真で表現できる空間を目指した。井上さんは「ここに撮影に来た子どもが走り回ったり、みんなでおしゃべりしたり。ここに来る人が“なんか居心地がいいな”と感じてくれることが一番大事。それがこの空間の価値です」と語る。

写真集が並ぶライブラリーのスペース。右の扉の奥は撮影機材庫。登山家・写真家である石川直樹の写真集や、アーヴィング・ペンの写真集がある *

暮らしと仕事のあわいで

「弘明寺で暮らし始めて良かったことは?」と二人に問うと、衣食住の快適さという実益に続いて、人とのつながりや時間の使い方がより豊かになったという。倉本さんは「仕事とプライベートの境目がなくなって、自然に行き来できる感覚が心地いい」と話した。
 
それを象徴するようなイベントが、2025年7月に弘明寺かんのん通り商店街で二人が主催した「夏の撮影会イベント in 弘明寺商店街」だ。これは誰もが予約なしで立ち寄れるポートレート撮影会。井上さんはイベント当日を振り返る。
 
「来てくださった方たちの中には、家族もいれば、ペットの犬や猫と一緒に撮る方、さらには、抗がん剤治療をするから髪の毛がなくなってしまう前に撮ってほしいと希望する方もいらっしゃいました。そういったいろんな方たちとの新しい出会いが自分たちにとっての財産になると感じています」

夏の撮影会イベント in 弘明寺商店街」で撮られた実際の写真 *

倉本さんも、目と鼻の先に知り合いがいるこの町が貴重な場所だと話す。「商店街のイベントにお客さんとして顔を出したり、カメラを持って写真を撮ったりしています。『住民として参加する』という関わり方がとても楽しいです。弘明寺に住み始めてから仕事やクリエーションそのものが大きく変わったというより、時間の使い方がすごく豊かになりました」
 
二人にとって「写真を撮る」という行為は、仕事の二文字では説明できない生活の一部だ。それは井上さんが放った「写真は日常の延長線みたいなもの」という言葉に表れていた。
 
「2025年の5月にニュージーランドで10日間のロードトリップをしたのですが、そこでは人の優しさや自然の風景、風土にどんどん目が向いて、写真撮影が目的ではなくなっていました。後から見れば良い写真が撮れてよかったと思う気持ちもありますが、“写真ありき”ではありません」
 
倉本さんも自分の経験や行動が写真を撮る行為よりも先行する、と二人の共通点を説明する。
 
「自分が足を運んだり体験したり、見たものが自然でも、人や動植物であっても、自分たちの体験や行動が軸ですね。その先に写真を撮る行為があるというのが、私たちの共通点かもしれません。被写体ありきではなく、どう撮るか、何と出会うか。何を見るかが先なんです」

暗室作業のスペース。ネガを薬液に漬ける時間を測るタイマーがあり、ここでネガを吊るして乾燥させる

そんな二人は今後、商店街での撮影会や、Studio neutralでのワークショップを開催するなど、スタジオをもっと開いていくことに関心を寄せる。フィルム現像やフードスタイリングなど、他分野の専門家を呼ぶことも考えており、スタジオを学びや交流の場としてもっと活用したいと話す。
 
生活と仕事のあわいが溶け合う不思議な空間。このアトリエは文字通り、日常と創造、仕事と暮らしをやさしくつないでいる。

PROFILE

Studio neutral
「住まうこと、感じること、生きること」。普遍的な美しさを表現する写真撮影を得意とするフォトグラファーチーム。
 
井上秀兵[いのうえ・しゅうへい]
得意分野はアウトドアやライフスタイル。美しい自然や光を印象的に捉えた撮影が得意で、被写体とのコミュニケーションに定評あり。また案件の提案段階からオーダーを汲み取り、撮影内容を構築することが可能。拠点は横浜・宮崎。
 
倉本あかり[くらもと・あかり]
得意分野は建築撮影、ポートレート。建築を綺麗に撮影するだけではなく、フォトグラファーの視点で美しいと感じた光の移ろい、住む人の空気、美しいマテリアルや配色といった空間の表情を捉えることに特化。拠点は横浜・京都。

取材・文:中尾江利(voids)
写真:大野隆介 *を除く

RELATED MAGAZINE

暮らしと創造が共存するまち、「弘明寺」を考える

あらたな事務所「AGry」を構え、弘明寺のコミュニティに変化をもたらしているのが建築家ユニット「AKINAI GARDEN STUDIO」だ。ふたりが関わるコーヒーショップの開店やマルシェイベントの発⾜など、弘明寺のまちづくりを泰有社と⿍談で振り返る。

「橋の上の、弘明寺市場」──歴史と新しい文化が交差するまちの魅力を発信

「横浜最古の寺」とされる真言宗弘明寺(横浜市南区)。鎌倉街道から寺まで延びる312メートルのアーケードは「弘明寺かんのん通り商店街」として、まちの人たちに長年親しまれてきた。2025年1月26日、商店街の中ほどにあり、大岡川にかかる「観音橋」「さくら橋」上でマルシェイベント「橋の上の、弘明寺市場」が初開催された。泰有社の「水谷マンション」内に事務所「AKINAI GARDEN STUDIO」を構える建築家・梅村陽一郎さん、神永侑子さん、入居者のクリエイティビティを育てるシェアハウス「ニューヤンキーノタムロバ」で前コミュニティビルダーを務め、そのまま弘明寺に住み続けるダバンテス・ジャンウィルさん(以下・ダバンテスさん)らも、商店街組合の先輩らとともに実行委員として参画し、1年をかけて準備をしてきた。弘明寺愛で一丸となった面々が作り上げたマルシェへの思いをうかがうとともに、当日の様子を紹介する。

水谷ビル

弘明寺商店街の新たな“顔” PEACH COFFEE/AGry

水谷ビル1階に2024年8月、スペシャルティコーヒー店「PEACH COFFEE(ピーチコーヒー)」がオープン。さまざまな人が日替わりで“小商い”を実践してきた「アキナイガーデン」があった場所だ。一方アキナイガーデンを運営していた建築設計事務所「AKINAI GARDEN STUDIO(アキナイガーデンスタジオ)」の神永侑子さんと梅村陽一郎さんは、同ビル2階に新たな拠点「AGry(アグリー)」を開設。お二人と、弘明寺商店街の新たな顔の一人となったPEACH COFFEEの百崎佑さんに、新店舗・新拠点の話を伺った。