関内駅の南口を出てベイスターズ通りを歩いてすぐのところに、1階が飲食店で賑わう大きなビルがある。トキワビル/シンコービル。1958年に建てられたこのビルは、この辺りに多く建つ防火帯建築のひとつだ。もともと常盤不動産が所有していたが、2016年に泰有社が取得し、ビル名も元の常盤不動産ビル/伸光ビルからトキワビル/シンコービルに改称した。
泰有社が所有するなら、きっとまた面白いことが始まるにちがいない−−。
ここ数年、この界隈を知る人ならば、そんな期待をするはずだ。なぜなら、泰有社は所有するビルにアーティストやクリエイターを呼び入れることで、いろいろなモノ・コトを生み出し、結果的に横浜のまちを楽しくしている立役者だからだ。
創造的な場を生み出すビルのオーナーとして、陰に日向に活躍されている泰有社の伊藤康文さんに、新しく取得したトキワビル/シンコービルについて、お話をうかがった。
泰生ビル、泰生ポーチ、そしてトキワビル/シンコービルへ
通りから見るとわかりづらいのだが、トキワビルはL字型の建物で、L字に囲まれた部分にシンコービルが建つ(常盤不動産ビルが建った10年後の1968年に増築された)。2016年、泰有社は常盤不動産ビルを取得する際、伸光ビルも取得。ふたつのビルの部屋数は合わせて57部屋、広さは総床面積2,896㎡(876坪)である。
なぜ、ビルを新たに所有しようと思ったのだろうか。
「安い買い物ではないので、もちろんいろいろな角度から検討しています。このビルの購入を考えたのは、端的に言えば、アーティスト、クリエイターの誘致がまだできるという手応えがあったからです。泰生ビル、泰生ポーチはいつも満室で、部屋の空きを待ってもらうことが多くて……」
そう、泰有社の物件はいつも人気なのだ。泰有社はトキワビル/シンコービルのほかに、関内にふたつのビルを所有する。トキワビル/シンコービルから歩いて2、3分の関内桜通りに建つ泰生ビルと泰生ポーチ、それぞれ築50年を超すビルだ。このふたつのビルは常に満室。たまに退去者が出ても、告知が出る前にすぐに埋まってしまう。なぜ、泰有社の物件はそれほど人気なのだろうか。
「賃貸物件における賃貸借契約で一般的にあるのは原状回復ですよね。でも泰有社は、部屋を思いどおりにしていいし、退去時の原状回復義務を負わないという条件を付けています。アーティストやクリエイターが部屋に手を入れた魅力的な空間に価値を見い出す人がいるということが、これまでの経験から分かってきたんです」
スクラップアンドビルドをあまり好まない泰有社は、都内も含め9棟のビルのオーナーだが、そのどれもが古いビルだという。関内に所有する4棟には、アーティスト、クリエイターを積極的に呼び込み、セルフリノベーションを推奨することで、ビルの価値を上げていくという方法をとっている。
「古いビルでも、クリエイターがいる部屋から漏れる灯りは素敵だと思います。先日もうちのビルに入居している建築事務所に、雰囲気のいいカフェと間違えて通りから入ってきてしまった人がいたそうです。ギラギラした看板を付けなくても、空気感みたいなものが人を惹きつけるんですよね。そういったことの一つひとつが、ビルの価値につながっていく。結局、ビルをつくるのは、そこに居る“人”なんですよ」
創造性を起爆剤にしたビルの再生
泰生ビル、泰生ポーチに続いて、泰有社が新たに所有したトキワビル/シンコービルは、「Next STEP(ネクストステップ)」というキャッチワードを掲げている。どのような想いが込められているのか、伊藤さんに聞いてみた。
「泰生ビルや泰生ポーチに入居していて、次の展開としてトキワビル/シンコービルに引っ越してきた人がけっこういるんです。もちろん、泰有社のビルを経て仕事や活動を展開していってくださいということではまったくないですが、それぞれが次のステップに行くときの受け皿として、トキワビル/シンコービルを用意できたのかな、という想いがあったのでつけさせてもらいました」
常盤不動産ビルと伸光ビルを前のオーナーから引き渡されたとき、全57部屋中、20部屋が空室だった。しかし、泰有社が新しくビルを所有したという情報は人づてに伝わり、美術家、建築家、編集者、デザイナーなどが続々入居したという。
台所も納戸も必要なければ撤去してよし、好きなようにリノベーションして構わない、という伊藤さんの後ろ盾を得て、壁を取り壊した建築事務所もある。
「すごいですよね、その道のプロなので、構造上の確認をして判断しています。さすがに壁に関しては、退去時、復旧してもらいますが、壁の抜けた部屋も需要があると見ています」
こうしてさまざまなクリエイターが入る泰有社のビルは、玄関のドアを開けるとそれぞれ違う空間が広がる。同じビルの中にいくつもの別世界があるのだ。
トキワビル/シンコービルの部屋の広さは37㎡(11坪)程度のものが多い。4、5人が入る事務所として十分使える広さだ。現在(2018年9月)、入っている入居者を五十音順に上げてみる。
アトリエモビルTeam Zoo(建築設計)、ウミネココ(アーティストユニット)、悦計画室(都市計画策定・コンサルティング)、北林さなえ(建築設計)、NPO法人S.A.I(舞台美術)、櫻井淳計画工房(建築設計)、さち庵(アーティスト)、合同会社 ZECU、チルダデザイン(デザイン)、ときにわ(設計事務所のシェアオフィス)、Hamanishi DESIGN(プロダクトデザイン)、原崎寛明(建築設計)、樋口昌美(アーティスト)、古市久美子建築設計事務所(建築設計)、voids(グラフィックデザイン・コーディネーション)、前田篤伸建築都市設計事務所(建築設計)、MATSUDA HOME(アーティスト)、本のモ・クシュラ(編集・出版)、ライトハウス(アーティストシェア)、River Design DEPT(デザイン)。
「入居者の顔ぶれを見ても、楽しくなりそうな予感、満載でしょう? ポテンシャルが高い人たちに入居いただいていることで、かなり面白くなるだろうと予想しています」
伊藤さんがこのビルで特に着目しているのが定期的に開催している入居者同士の交流会だ。気軽に飲食をしながらも、『どうしたらこのビルを盛り上げていけるか』というアイディアも積極的に交わされる。
「ビルを面白くしていこうという入居者と同じ目線で僕もなるべく顔を出すようにしています。先日の交流会では、ビルの一室だけ貸さないままにして、このビルのパブリックスペースにしようって、そんなアイディアが生まれたんです。入居者はその部屋でプレゼンをやったり、イベントをやったり、お茶を飲むだけでもいい、夜はバーになってもいいですよね。たまに僕がバーテン、やろうかな(笑)」
自分も楽しむことを忘れない伊藤さんは続けてこう話す。
「だって、そんなスペースがあったら、ほかのビルに引っ越そうなんて思わないでしょ」
入る人にとって魅力あるビルにすること。それはエントランスを大理石にすることでも、オートロックにすることでもない。ふだんよりも人の声に耳を傾けられたり、日常の中で新しい興味や知識に出会えたり、自分の仕事や表現が街とつながっていくことを感じられたりする、そんな場がビルの中にあること。そして、そうした場から生まれる肯定的なアクションのすべてが、ビルのブランディグになっているのだろう。
そこに居る人たちが、ビルをつくる
入る人にとって魅力あるビルにすることーーそんな伊藤さんの言葉と重なるスペースが、シンコービルの1階にもある。横浜を拠点に活動するアーティストの内藤正雄さんと泰有社が組んでオープンしたBAR「常盤町展示室」だ。天井に煌めくシャンデリアなど、昭和から続くスナックだったというかつての場の記憶も残しつつ内藤さん自ら改装した空間は、その場を共有する人と人の間に自然と交流を生み出し、思いがけない対話を生み出す。
こうした泰有社の創造的な場が生み出した出会いや交流は、数知れない。伊藤さんはこう振り返る。
「泰有社がやってきたことは、狙ってやったことが半分、残りの半分は自然発生です。例えば去年、泰生ビルには、通信制の明蓬館高校の分校や保育所が開所したんですけど、まったくの予想外でした。自分たちのビルに、高校と保育所ですよ。人のつながりがあったからこそ、そしてプロジェクトをかたちにできるクリエイターがいたからこそ生まれました。こういうのは絶対に狙えない。トキワビル/シンコービルのこれからも、半分は予測できない。だからこそ面白いんですよね」
「絶対に狙えない」という伊藤さんの言葉どおり、泰有社のビルの中に生まれたプロジェクトの数々は、このビルで活動をする入居者たちの、綿々と続く日常の流れの中の結節点として生まれたものが多かったはずだ。
今後の展望を伊藤さんに聞くと、関内に所有する泰有社のビルが増えたので、それぞれのビルの住人の顔を見える化し、交流できる状態にしたいという。
「泰有社のビルに入っている人たちのことをいちばん知っているのは僕。それだともったいないなっていつも思っています。泰生ビル、泰生ポーチ、トキワビル/シンコービル、それぞれビルの匂いが違うんですよ。入っている人たちの個性がそうさせるのでしょうね。僕はそれぞれのビルを行き来するから、よくわかります」
ビルをつくるのは、そこに居る人。泰有社が大切にしている思いは、やはりそこにあるようだ。
取材・文:大谷薫子/写真:阿部太一
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