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対談
横浜エリアの
キーマンふたりが語る
泰有社の“伝統と革新”

泰生ビル、泰生ポーチ、トキワビル/シンコービル、そして弘明寺プロジェクトと、ここ数年、横浜エリアを中心にクリエイティブな拠点を次々と創出し、新たなまちの魅力を発信し続ける泰有社。いったい泰有社とはどんな会社なのか? その成り立ちや弘明寺への思い、そして、これからの不動産像など、キープレイヤーのふたりに語り合ってもらった。
 

対談者:水谷浩士(泰有社代表取締役)、伊藤康文(泰有社)
進行:編集部

弘明寺から生まれた不動産

水谷 今も私の実家は、弘明寺の本社オフィスから歩いて5分くらいのところにあります。先祖の墓があります保土ヶ谷は、かつて宿場町で、水谷家の祖先である「水屋(与右衛門)」という脇本陣がありました。
また、水谷家の何代か前は、商船を営んでいたそうです。昭和初期に、その仕事で「財」をつくり、弘明寺周辺の土地を購入したということを先代から聞かされました。
弘明寺商店街は、横浜市でいちばん古いとされる弘明寺の参道沿いにあるので、もともと闇市や露店が点在していたそうです。先代はそこに土地を持っていましたので、店主(露店を出していた方々)と借地権の契約をしていったのだと思います。その後、昭和の高度経済成長の時代に入り、商店街はつねに活気にあふれていたそうです。
 

伊藤 昔の商店街の写真を見ると、呉服店が結構、多く見られるのも特徴的ですよね。昭和の頃までは、まだ着物を着る方も多かったんでしょうね。
 

水谷 会社を法人化したのは1966年(昭和41年)です。祖父である水谷欽一が個人事業主から泰有社という不動産会社にしました。
 

編集部 ちなみに、先代、先先代が弘明寺の土地を選んだのには、どんな理由があったのでしょうか。
 

水谷 この商店街沿いの土地を取得したのは、お寺の参道、つまり人通りが多く賑わっていたからだと思います。関内に「泰生ビル」を建てたのも「街がより一層、栄える事に役立つため」と先代からは聞いています。やはり将来的なことを考えて判断したのだと思います。
ちなみに「泰生ビル」が竣工した年は、会社が法人化した1966年(昭和41年)と同時期です。つまり創業して最初に竣工したビルになります。
当時、関内周辺には大きなビルなどが無かった時代です。今よりも建築技術も低かったので、隣の土地を持っていた常盤不動産と一緒に、「細いビルを建てるよりも、一緒に頑丈なビルを造ろう」となり、共同で「泰生ビル」を建てたのだと先代からは聞かされています。
 

伊藤 隣接している「新井ビル」や「常磐不動産ビル(トキワビル)」など、1952年(昭和27年)〜’60年代初頭(昭和35〜40年代)にかけて、そこかしこに鉄筋コンクリート造の防火帯建築(※)のビルが建ち始めていた頃です。ただ、(防火帯建築で)エレベーターが付いているビルは当時あまりなかったと思います。
 

※都市の防火を目的として、1952年に施行された耐火建築促進法に基づき指定された防火建築帯内に建設された 主に3、4階建ての耐火建築物で、横浜では接収解除の時期と重なったため、都市の復興を加速するために多く の防火帯建築が民有地に建設された。防火帯建築には、新しい建物では出せない趣や魅力があり、現代でも古い 建物、街並みを求めて居住する人、店舗や事務所を構える人がいる。(横浜市記者発表資料より引用)

水谷 時代の先端をいっていたようです。
 

伊藤 ほとんどの防火帯建築が4階建てですからね。高さ制限があって、当時の法律上、5階建てはエレベーターを付けなければならなかったのでしょう。
 

水谷 泰有社が建てたビル物件で現存しているのは「泰生ビル」が一番古くて、竣工当時は、海岸の埋め立て地もずっと手前にあったので、屋上からは海がよく見えたそうです。
 

伊藤 今では屋上に上がっても周辺はビル群に囲まれてしまって、海は見えませんからね。
 

水谷 きっと海を眺めながら、「おらがビル!」という感じだったのでしょうね。
 

編集部 そうすると不動産業は、創業以来、弘明寺と関内を拠点にやっていたのですね。
 

水谷 そうです。その後、祖父は1980年(昭和55年)、弘明寺商店街に水谷ビルを建築しました。1階には店舗があり、その上は賃貸マンションです。祖父は弘明寺の発展のために2階以上を有効活用することを考え、平屋の商店主様たちと話し合い共同で4階建の水谷ビルを建築しました。
 

編集部 時系列でいうと、水谷ビルの次は何でしたか。
 

水谷 1991年(平成3年)に商店街にGMビルを建てました。まだ祖父の代です。ここも水谷ビルと同じで、1階が以前から商店の方々の所有権です。上層階は賃貸の住居です。祖父の代に建てたビルはここまで。その後、私は1994(平成6年)に会社を継ぎました。
 

編集部 でも、そもそもなぜ、孫である水谷浩士さんが会社を継ぐことになったのでしょうか。
 

水谷 もともと私の父は根っからの会社人間でしたので継ぐ気がまったく無かったようです。かくゆう私自身も、ずっとポルシェの輸入代理店で営業の仕事をしていたので、「会社を継げ」と言われたときは、青天の霹靂でした。
 

編集部 不動産業について、直に先代からの教えを受けたことはありますか。
 

水谷 とりあえず祖父の会社を手伝おうと考えて、会社を辞めましたが、それから1カ月後に祖父は突然他界してしまったので不動産のことを直接学ぶ期間などがありませんでした。なので、会社の土地をどこに持っているかさえも知りませんでした。もちろん、継ぐ覚悟はしていましたが、まだ29歳の頃でしたからね。
普通は、親世代が継承しますが、父は「おまえがやりなさい」、母も「もうあなたに任せた」という感じでした。今思えば、僕に任せたのも大きな賭けだったと思うんです。
 

伊藤 それから2008年(平成20年)のリーマンショック前までは業績を上げるために不動産売買を頻繁に行っていました。ただリーマンショック後は、関内の物件の空室率が高くなり、私たちも「空室をもう少し埋めていこう!」という発想にシフトしていきます。

“ご縁”をつくるコミュニティ

水谷 今まで泰有社が取得した物件にはつねに何かの“ご縁”があったのだと思います。関内の泰生ビル近くの常磐不動産ビル(トキワビル)も、そのオーナーとのご縁から生まれました。
リーマンショック後は、祖父が築いてきました原点に戻ろうと考えました。そんな折、横浜市にはクリエイターやアーティストを支援する制度(芸術不動産助成金事業)があることを知り、2009年(平成21年)、伊藤が市の外郭団体である公益財団法人横浜市芸術文化振興財団に相談に行くわけです。
 

伊藤 ちょうど東京R不動産など、古い物件をリノベーションして利活用するビジネスモデルが注目されはじめた頃でした。
泰生ビルでは、積極的にクリエイターたちを誘致し、彼らも「自分たちでリノベーションできる」という条件に興味を持ってもらえました。泰有社としても、できるだけ家賃を安くした結果、半年足らずで、17の空室が全部満室になったんです。
ちょうど今から7年くらい前、リノベーションという言葉が広く使われ出した頃です。何となく、私たちもその時流に乗れたというか、たまたまクリエイターが横浜に集まってきていた時期とも重なったんでしょう。
2010(平成22年)くらいにはリノベーション物件に助成金が出るなど、この頃からクリエイターの入居者は年ごとに増えていきます。
 

水谷 ただ私たちは、これまでそういうビジネスをしていませんでしたから、当初はクリエイターを集められるかどうか心配でした。共通の趣味をもつ友人は、数人おりましたが。
 

伊藤 結局、横浜を拠点とするクリエイターやアーティストの輪の中に泰有社も入れてもらえたのが、今につながっているのだと思います。
 

水谷 ちなみに、オフィスのあるGM2ビルを取得したのは、2006年(平成18年)です。旧知のナガオカケンメイさんに、本社オフィスのリノベーションをお願いしました。
このビルはもともと、「長崎屋スーパマーケット」として建てられ、子供時代は僕の遊び場でもあったんです。
 

伊藤 でも、バブル崩壊後に長崎屋が倒産してからは、オーナーも何代か交代しましたよね。
 

水谷 確か2代かな。次々オーナーが破綻して、もはや機能不全のビルになっていました。バブル崩壊後、不景気の時代に入り、商店街の方から「ここはある意味、つまり弘明寺の中心というか玄関口なので、そこが空きビルのままではイメージとして良くない」ということで、「水谷さん、買ってください」と頼まれて……。私自身も地元のために役立つならと思ったんですね。
 

編集部 さきほど泰生ビルのリノベーション後が、クリエイターとのコミュニティに関わりはじめた原点だとおっしゃっていましたが、このGM2ビルを取得した頃からじつは弘明寺商店街の方々とはいろいろやりとりされていたんですね。
 

水谷 私は会社を引き継いでから、商店街の方々に土地を購入していただいたり、いろいろとお世話になっております。
 

伊藤 そう考えると泰有社にとって、GM2ビルは、相当重要ですよね。
 

古き良きものと消費ビジネス

編集部 泰有社のオフィスを拝見していて思ったのですが、もともと水谷さんがアート好きだったことも、今の仕事に影響しているのではないでしょうか。
 

水谷 あ〜、それはそうかもしれませんね。もうひとつ言うと、腕時計とかもそうですが、「古い物好き」でもあります。だから「壊して建てる」というやり方にはずっと疑問を抱いていました。良いものを生かすことがビジネス的にもある意味効率的だと考えていましたから。壊して、建てる大手ディベロッパーの街づくりの手法は転換しなければいけないと思っています。
 

伊藤 僕も古いものを大事にしていきたいと考えています。建物に関しては、とくにそう思います。僕らがやっていることは、古い不動産とハイテクとの融合です。入居している人たちは、結構、コンピューターやデザインなど先端の仕事をされている方々が多くいます。
つまり古いビルの価値をみんなで共有して、入居者同士で新しい付加価値を与えていくこと。そこから何かが生まれそうな予感がしています。今夏、リニューアルオープンした「トキワビル/シンコービル」などは、まさにそのようなテーマになっていくと思います。
 

水谷 ビジネス的には、以前から中古物件を買うべきだという意識はありましたね。昔のように、新築のビルを建てたことを自慢するような時代でもないですから。あと新築だと投資分を回収するのにも時間が掛かります。借金をしっかり返済できて、きちんと利益も出て、入居者のみなさんに還元できる。私たちはそういう循環をみんなで共有できる会社にしていきたいと思っています。
 

伊藤 正直な話、6年前までは「泰生ビルを売却しよう」という話もありました。でも、自分たちでリーシングするスタンスにしたことによって、泰生ビルの44世帯はこの5年間、ずっと満室状態です。
それまでは何かトラブルがあれば管理会社を通していたのが、今では入居者ときちんと顔を見て本音トークで話をするようになり、それも功を奏したのだと思います。入居者が部屋を退去されても、すぐに次の入居者が見つかる現在のような状況は人と人とのつながりがないと、たぶん起こり得なかったと思っています。
 

編集部 泰有社が取得した関内の各ビルは、クリエイターやアーティストがうまくビルと融合し、共に価値を上げていっている感じがします。
 

伊藤 私たちにとって、いわゆる“ビル”って、消費ビジネスではないと思っています。例えばパソコンや家電は、消費ビジネスのカテゴリーですよね。30年も40年も使えないし、新商品が出て循環していくわけです。でも、ビルにはそれがない。人口は減り続ける中で、15年後、20年後も同じように新しいビルを建て続けても、街自体が駄目になってしまうのは目に見えます。
もちろん、すべてにおいて古いものが良いというわけでなくて、パソコンやクルマなどはどんどん消費して、技術開発され、便利さを求めていけば、それはそれでいいと思うんです。

これからの泰有社について

伊藤 いろいろな考え方があると思います。例えば、今後も横浜の古いビルを買い、そこにクリエイターたちを誘致するということもありでしょう。それは社会情勢などを鑑みて考えていかなければと思っています。
 

水谷 街自体が衰退してしまっては、会社も存続しませんから。そのために、時代と合わせてバランスを取っていかなければいけません。考え方が時代に合っていないと、生き残れませんから。だから、これまでのような縦の思考ではなくて、僕らはフラットな思考を好みます。若い人たちの新しい意見を取り入れながら、人がしていない、泰有社ならではの活動をどんどんしていきたい。この時代を生き延びるために。
あまり、ビジネスを優先し目先の利益ばかりを考えていると、経験上、だいたい失敗しています。そのときはいいかもしれませんが、やはり長くは続かないものです。
振り返ると先代の祖父もじつは同じ考えだったのではと思います。本当に街のことをいろいろ考えてやってきた人なので、今でも地元の人から祖父への感謝の言葉をよく耳にします。やはり原点はそこなのかと思うんです。
 

編集部 先代の想いが泰有社の未来像でもあるのですね。
 

水谷 ええ。先が読めない時代ですが、とにかく関内や弘明寺がより楽しい街になっていってくれるように微力ながら貢献していければいい、それにつきます。
 

伊藤 今後もトキワビル/シンコービルではいろいろなクリエイターを誘致していきますし、リノベーションをしている水谷マンションもそうしていきたいと思います。ただ、これまでのように満室になったら、次の中古物件を探す、ということではなくて、満室の状態で何を考えられるかということを少し試してみたいです。「誘致」ではなく、今いる入居者とどう一緒にアウトプットしていくか。それもこれからの楽しみのひとつです。
 

水谷 もちろん、総合的に考えた結果、どこかの中古物件を購入することもあるかもしれませんが。
 

伊藤 そうですね。だから、今後も、いろいろな人たちの意見、例えば建築、デザイン、NPOなどの方々の意見をすごく大事にしていきたいと思います。それをひとつのプロジェクトにして、街にアウトプットしていくことが、今の不動産業には試めされているのではないかと思っています。
いわゆる不動産の価格はマーケット次第で決まるのが業界の定説です。でも、僕らはそういうことではなくて、どんな僻地でも新しいビジネスが起こり得ると思っています。
その場合に、泰有社だけで難しければプロジェクトチームごとの働き方というものも柔軟に考えていかなければいけないのではないでしょうか。
 

水谷 例えばそれが別の会社の事案であってもいいのかもしれませんよね。昨年、オンデザインの紹介で、川崎のunico(※)というプロジェクトに、僕らもアドバイザー的な側面で参加させてもらいました。これもきっとご縁です。今後も泰有社のポジションでこうしたプロジェクトに入れたらうれしいです。
 

※JR川崎駅から徒歩10分ほどの日進町というエリアに2017年に誕生した。食品容器工場をリノベーションした複合施設。

編集部 もはや既成の不動産業のイメージとは異なりますが、泰有社が、そっちのほうに舵を切るきっかけは何だと考えますか。
 

水谷 きっかけは、仕事を通して、困ったときに周りの人に助けていただいたり、尊敬できる方々と一緒に仕事ができたことが影響していると思います。結局、今、泰有社がこうなっているのも、そうしたいろいろな“ご縁”があったからです。伊藤も僕も、数年前まで、まさかこんな状況下で仕事をしている自分を想像もしていませんでした。
時代の流れや運もあるのでしょうが、基本的には、もっと楽しくなると思っていれば、おのずといいご縁も増えていくのではと思います。よく伊藤と話すことは、「これまでの不動産ビジネスは、ビルが主役で人が脇役。それを泰有社は逆にしたい。つまり、あくまでも人が主役だからこそビルが成り立つ」ということ。
 

編集部 今後も、おふたりの活動から目が離せません。
 

水谷 今後のことについては、もう臨機応変に動いていくしかありませんね。僕は今、53歳ですが、50歳を過ぎてから、自分の人生をより楽しく
したいという境地になりました。
 

伊藤 そういえば泰有社という会社は、ずっとと僕の実質二人三脚で動かしてきましたが、先日、事務担当が加わりました(笑)。
 

水谷 先代が1人でやっていたことを考えれば、思いきった事業拡大です(笑)。泰有社は定年とかもないので、僕らはもう働けるだけ働きます。
 

伊藤 あと15年くらいはガッツリ働けますから。引退を考えるのは、いよいよ歩けなくなってからで十分ですよね。
 

水谷 そう、“働きながら楽しめれば、それでいいしょ”みたいな感じでね。(了)

撮影場所:泰有社本社オフィス
写真:柏木龍馬

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