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泰生ビル
入居者ファイル#22
今井嘉江さん(自在関内オフィス)

「泰有社」物件に魅せられた人々を紹介する「入居者ファイル」シリーズ。今回は、アーティスト支援の拠点として泰生ビルに「自在関内オフィス」を構え、現在は「アートスペース『と』関内」としても活動する今井嘉江(いまい・よしえ)さんにご登場いただきます。

多くのアーティストやクリエイターが活動する横浜。彼ら/彼女らに寄り添いながら活動の場を提供するだけでなく、その目線を街にも向け、子どもたちを含む多くの人々の居場所をつくってきたのが今井嘉江さんだ。今井さんは2009年に泰生ビルに入居し、「自在関内オフィス」をオープン。その後の12年、石川町のひらがな商店街に「ひらがな商店街アートスペース『と』」を立ち上げた。同スペースは昨年クローズし、現在は泰生ビルに移転している。今回は今井さんに加え、その活動を引き継ぐ瀧脇信さん、林北斗さんにお話を伺った。

アーティストにお返ししたい、という思いから

今井さんが泰生ビルに入居したのは、いまから約10年前の2009年のこと。当時の泰生ビルは全体のリノベーションを行う前で、空き家も目立っていた。「元々は自分の住まいとして借りようとしていたのですが、自宅を開放して1998年に立ち上げたNPO法人『シャーロック・ホームズ』の青少年・子育て支援の事業を支えてくれたのがアーティストたちだったこともあり、せっかくなら彼らにお返ししたい、彼らに使ってもらえるような場所にしたいということで、アーティスト支援の拠点をつくることになりました」。

現在の部屋の様子。広々とした空間に、これまでの活動の成果が凝縮されている

こうして2010年に横浜市芸術文化振興財団の助成を受け、リノベーションを経て生まれたのが、アトリエ・ギャラリースペースである自在関内オフィスだ。部屋には作業用のスペースに加えて茶室も備え、展示やイベントが行われた。利用者は業種を越えて交流し、吉本伊織さんや須永健太郎さんといったアーティストのほか、現在泰生ビルに入居するウェブ制作会社「チーム45カイ」や、横浜・東京でリノベーション物件を手がける「リノベ不動産|BeatHouse」を立ち上げたクリエイターたちが巣立っていった。これも人と人をつなげ、どんなアイデアも試せるような場所をつくる今井さんの手腕があってこそ。今井さんは、「ここを出た人たちがどんどん成長していて頼もしい限りです」と微笑む。

壁には明るいメッセージが

「おせっかい」が生む人と人のつながり

12年には、お母様が亡くなったことをきっかけに実家を改装し、石川町にひらがな商店街アートスペース「と」をオープンした。リノベーションには、似て非worksの稲吉稔さんや、野毛山の多国籍・多世代交流施設CASACOを手がけたトミトアーキテクチャ、そして周辺の学生たちが参加。手づくりで7ヶ月ほどをかけ完成した。
 

18年からは朝食を提供し、生活リズムの乱れがちな学生や若者の支援につなげる「ひらがな食堂」の活動も始めた。「と」は絵本カフェやアートスペースといった名前を越えたまちづくりの拠点となり、昨年ひらがな商店街での活動を終えた。

ひらがな商店街アートスペース「と」*

「実家は駄菓子屋さんで、おでんやお好み焼きも出していました。お相撲の時間になるとみんながテレビを見に来たり、誰かしらいつも私の家に入り浸っていましたね」。そんな今井さんは結婚してからも、意識しないうちに自分の家を開いていたという。「誰かが来ることに抵抗がなさすぎるというか、特別なことではなかった。だから『と』やひらがな食堂も、何か強い思いがあったというよりは、自然に始まりました。お腹すいてない?大丈夫?というおせっかいを続けているんです」。
 

「と」で新しく生まれ、現在まで続いているプロジェクトもある。それが、2014年当時医学部の学生だった小林遼さんがスタートした「つきしみの学校」だ。
 

患者に対する医師の役割は病気の治療だけでなく、その前の段階で心の健康を保つことにもあると考えていた小林さん。複数の大学が集まる学生演劇団体「つきしみ」にも参加し、演劇の手法を街のなかで機能させる方法を模索していた。そこで、「と」を拠点にコミュニティづくりを実践したいと今井さんに相談。こうして、さまざまな困難を抱える子どもやお母さんが集まるつきしみの学校が生まれた。

ひらがな商店街アートスペース「と」での「つきしみの学校」活動の様子*

思いを受け継いでつくる居場所

小林さんは現在、医師・演劇の演出家として活動している。その思いとつきしみの学校を受け継いだのが、瀧脇さんと林さんだ。瀧脇さんが小林さんに出会ったのは5〜6年前のこと。高校を卒業するタイミングで「と」にたどり着き、気づけば自然とつきしみの学校を引き継いでいた。「つきしみの学校は学習支援というテーマで始まりましたが、小林さんは、ただ勉強を教えるのではなく、コミュニケーションを通して自己寛容を獲得していくのが演劇的な価値だとおっしゃっていました。支援する側とされる側という関係ではなく、それぞれがただ存在している。僕自身も居心地がいいから関わっているし、みんなもそう思って集まっているはずです」。

左から林さん、瀧脇さん、今井さん

いっぽうの林さんは、大学では美術や文学を研究し、美術を支える仕事に関わっていた。しかし、実際に街のなかでどのようなアートが必要とされているのか考えたいという思いから、地域に出て活動を開始。2年前に横浜コミュニティデザイン・ラボによる「横浜市ことぶき協働スペース」のスタートメンバーとして、今井さんや小林さんと出会った。
 

演劇的な発想から生まれたつきしみの学校だが、具体的に演劇を活動の軸にしているわけではない。「あえて演劇を打ち出さなくても、家庭や学校に居場所を見いだせない人にサードプレイスを開き、基本的なコミュニケーション能力を涵養していくこと自体が演劇的な行為だと考えています」と林さん。現在は毎週土曜日、中学生から大学生まで幅広いメンバーとZoomでおしゃべり会を開いている。

棚にはたくさんの絵本が並ぶ

コロナ禍でもつながりを絶やさない

昨年泰生ビルに移転した「と」だが、コロナ禍によってこれまでのように多くの人が集まることは難しくなってしまった。今井さんたちは、こうした状況のなかでも人と人のつながりを絶やさないよう、地道な活動を続けている。
 

そのひとつが、野菜を家庭に届けるプロジェクトだ。今井さんは昨年から自宅の菜園を地域の交流拠点として開きつつ、野菜や苗を家庭に届けている。瀧脇さんや林さん、地域の住民も協力し、関内から本牧まで広いエリアをカバー。「いまはどこの家庭も厳しく、一人っ子や母子家庭など一日の大半をひとりで過ごす子どもが多いのが現状。何を届けるかはもちろん、玄関先でのおしゃべりなど、そこから生まれるつながりの時間を大切にしています」。

野菜のプロジェクトから生まれたレシピブックなど、これまでに制作した印刷物

林さんはこう語る。「届けた野菜を使ったレシピブックをつくるというアイデアがお母さんたちから出てきました。デザインや文章も分担して、新しいプロジェクトが半分僕たちの手を離れて進んでいくんです。既存のルールを更新したり新しくつくったりというのが現代アートの根本的な発想ですが、人をやる気にさせて巻き込んでしまうというのも、すでにアートだと思うんです」。こうした実感を得て、野菜を届けるプロジェクトは今後もアウトプットのかたちを変えて継続していくという。
 

アートやまちづくりといった言葉で切り分けるのではなく、地続きに活動を行う今井さんたち。直近では「コロナに負けるな/コドモ100人プロジェクト みんなの帆船を見にいこう!」として、総勢200名ほどの子どもたちが描いた帆布を横浜みなと博物館で展示。10月からは「なか区ブックフェスタ」に参加し、絵本の展示を行う予定だ。

ひらがな商店街で使っていた雑貨の一部は、泰生ビルの保育園「ピクニックナーサリー」のバザーに出品する予定だ

「関内は子どもたちが少ないエリアではありますが、入居者とのつながりから生まれる出会いも多いです。初めの予定通りここを住まいにしようかと思うほど、居心地がいいんです」と今井さん。瀧脇さんと林さんは今後「と」を拠点に、起業する人を支える「一般社団法人からこそBOX」を立ち上げる予定だ。世代を越えてバトンをつなぎ、これからも誰かの心の拠りどころとなる場所が生まれていく。

PROFILE
今井嘉江[いまい・よしえ]
1951年生まれ。1998年に自宅を開放した青少年の居場所・相談事業を開始し、10年後に法人化。「NPO法人シャーロックホームズ」理事長就任。2008年、シャーロックホームズを巣立った青少年が任意団体「チームOB」設立。2008年、古民家再生事業「南軽井沢稲葉邸」開設運営に携わる。2010年、泰生ビルに「自在関内オフィス」を設立。2011年にひらがな商店街アートスペース「と」 まちづくり運営員会設立、翌年同スペースをオープン。2015年、チームOBメンバーを中心に一般社団法人自在を設立。2018年、無料の学習支援事業「つきしみの学校」を横浜市立大学の学生らとともに開始。2020年にひらがな商店街アートスペース「と」を関内に移転し、アートスペース「と」関内として事業を継続している。
 

青山学院大学社会情報学部ワークショップデザイナー12期生(現在12期生とアーティスト支援やアートイベントなどの立ち上げ等に関わっている)、横浜市寿町健康福祉交流センター (2019年~)ことぶき協働スペース副施設長。

取材・文:白尾芽(voids)
写真:加藤甫(*をのぞく)

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